横浜市学校保健会(歯科衛生士解雇)事件

 

大石 玄 (北海道大学大学院法学研究科)

2005年12月,季刊労働法211号に掲載


1 事案の概要

● 当事者

 第一審被告・被控訴人Yは,横浜市教育委員会から委託を受け,学校歯科保健事業を行っている団体である。この事業の主たる内容は,市立の小中学校のうち希望する学校に歯科衛生士を巡回させて行う歯科巡回指導である。第一審原告・控訴人Xは,当該事業のため1967(昭和42)年にYに雇用された労働者。

● 従事していた業務の内容

 歯科巡回指導は,歯口清掃検査と歯科保健指導とから成っている。このうち歯口清掃検査の方が業務量の大部分を占めており,指導における中心的かつ不可欠の要素である。これは,対象となる児童すべてに対し逐一,その歯口および口腔内の清掃状況を検査し,その状態を当該児童に知らせ,歯口清掃,咀嚼,間食等の指導に当たることを内容とするもの。歯科保健指導には,歯磨き習慣の育成を目的としてクラス単位で一括して行われる集団指導と,歯口清掃検査の結果により特に指導を要するものと認められた児童に対して行われる個別指導とがある。

 1982(昭和57)年度以降,Yが歯科巡回指導を実施していたのは小学校のみである。1995(平成7)年度におけるYの実績によると,323校において指導が行われ,その対象となった児童数は18万2964名(延べ人数33万9571名)であった。当該指導に従事したYの歯科衛生士数(実働)は7名である。

 Yでは年度始めに,どの歯科衛生士がどの学校を巡回するかの日程を決定している。歯科衛生士は,各小学校ごとに一人で歯科巡回指導を行っている。勤務日は毎週月曜日から金曜日までであるが,このうち4日は巡回指導を行い,残り1日はY事務所での事務処理に充てられるのが原則となっている。

 歯科衛生士が巡回指導に赴く場合の1日の動きは,およそ次のようなものであった。

 歯口清掃検査の実施に当たって歯科衛生士は,児童に対面し,児童に口を開けさせて口腔内を見分し,歯や歯茎など口腔内の状態を検査する。現状では,児童が歯科衛生士の前に立って口を開け,歯科衛生士の方が児童の身長に応じて立ったり座ったり中腰になったりをして口腔内が見える位置を確保している。歯科衛生士は,児童の歯を剥き出しにするために,児童の歯を覆っている唇をめくったり押し下げたりしなければならない。そのため従前の方法では,歯科衛生士は両手の指を使って児童の唇に直接触れて押し広げ,歯の状態を見ると,近くの台上に用意したアルコールを含ませた綿で指先を拭って消毒し,次の児童の検査に取り掛かっていた。この際,歯科衛生士は左手の親指と人差し指で児童のあごを支えながら,右手に持った綿棒を使って児童の唇をめくり,歯の表面および裏面に綿棒を当てて表面を拭い,歯の状態を確認している。

 また,歯口清掃検査の際に歯磨き方法について指導が必要であると認められた児童に対しては,歯科衛生士が歯磨きの実演をしなければならないこともある。集団指導においては,大きな模型を利用して模範を示して指導しており,個別指導においても不適切な磨き方をしている児童には手を添える必要があるなど,歯科衛生士が実演をすることが必要な場合が多くある。

● 紛争に至るまでの事実経緯

 Xは,1988(昭和63)年12月,頸椎症性脊髄症(*1)であり休業を要すると診断された。同月23日からXは私傷病職免の適用を受け,翌1989(平成元)年1月に頸椎固定の手術を受けている。私傷病職免および年休をすべて消化し終えた同年4月25日においても入院が必要で,業務に従事できない状態であったことから,診断書を添えて休職願を提出。Xは同月26日から有給休職の適用を受け,以後3か月ごとに更新をして休職を続けた。

 1991(平成3)年2月下旬の時点におけるXの状態は,両足がつるなどして補助具を用いても歩行することができず,車いすを使用し,かつ,介助者の介助を受けなければ外出することも日常生活を送ることもできない状態であった。また同年7月時点では,左上肢を上げ続けることができず,震え等の不随意運動が起きていた。

 Xの休職期間は1992(平成4)年4月25日で満了し,同日以降は欠勤として取り扱われることになっていた。そこでXは同年4月10日,従前に比べて身体の運動機能が改善したわけではなかったが,Yに対し「現職復帰願」を提出。Xは,これまでの業務形態を変え,Xの現状でも従事することができる仕事を用意してほしい旨を伝えた。同時に提出された主治医からの診断書(A1)では「現在の状態で単独の就業は困難と考える」と記載されていた。

 これに対しYは,診断書(A1)の内容からみて復帰は困難であると回答。同月21日に行われた話し合いにおいてYは,自力通勤および自力勤務ができることが必要であるとし,介助者付きの現職復帰には難色を示した。Yは,無給休職期間が終了しても,現職復帰の可否を判断していることに鑑み,Xを欠勤扱いとしつつ欠勤を理由に解雇することはしないこととした。YはXに対し,指定する医療機関で診察を受けるように求めたが,Xはこれに応じなかった。Yは,現職復帰の可否を判断している途中であることに鑑み,無給休職期間が満了した後は欠勤扱いとしつつ,欠勤を理由に解雇することはしない取扱いをすることにした。

 1993(平成5)年3月,再びXは介助者付きの現職復帰を求め,交渉が持たれた。ここでYは,巡回する学校までの距離を考えると車いすでの移動は困難である,検査のためには児童の口を両手で開ける必要があるがXの現状でかかる動作を行うことは無理である,検査すべき児童数が多いのでXには無理である等,Yの考えを説明した。また,復帰の可否を決定するためには専門家である医師の診断が不可欠であるとし,Xに再度診断書の提出を求めた。

 1994(平成6)年2月23日,Xは専ら内科的所見が記載された診断書(D)を提出。これに対しYは,D診断書では左上肢が支障なく動くか等の運動機能の現状が不明であり現職復帰の可否について判断できないとし,Xに直接事情を聞くこととした。しかしながら条件が折り合わず,Xが出頭を拒否したため,弁明の聴取は行われなかった。YはXに対し,整形外科医による診断書を提出するよう再々度求めた。

● 本件解雇の発生

 同年3月31日,Xは診断書(A2)を提出。この診断書では,「頸椎症性脊髄症 左上・下肢の麻痺による。移動,通勤に補助があり(車いすその他),左上肢に負担をかけなければ勤務は可能と考える」と記載されていた。これに対しYは,弁明の機会を設けた。

 同年4月25日に行われた会合では,Yの理事が「歯口清掃検査を行う場合,児童の背の高さに合わせてXの視線の高さを合わせることができるか。」との質問に対し,これまでのように立った状態で歯口清掃検査を行うことはできない旨答えたほか,左手が震えてしまい,仕事をするにも力が不足しており,児童の唇を指で押し広げることもできない旨述べた。

 同年8月4日,Yは臨時部長会を開催。診断書A1およびA2と,4月25日にXが行った弁明により知ることができたXの身体(特に左上肢の機能の制限)に関する知見に基づいてXの処遇に関つき検討を行った。その結果,Yの勤務条件規程3条3項2号にいう「心身の故障のため,職務の遂行に支障があり,又はこれに堪えない場合」にXが該当すると判断。12月20日,Xに対し予告解雇の通知をした(本件解雇)。

 本件解雇当時,Xは,左上肢を一時的に上げることはできるものの,左上肢を上げたままの姿勢を長く保持することが困難であるばかりか,左上肢を上げ下げする動作を繰り返していると左手に震え等の不随意運動が生じてしまうという状態にあった。また,左手の握力は9ないし12キログラムと,小学校低学年の女子程度のレベルしかなく,特に左手母指の筋力が著しく弱い状態にあった。Xは,補助具を用いても自力で立つことができず,常時車いすを使用する必要のある状態にあった。

 本件は,Xが当該解雇の無効を主張し,歯科衛生士としての雇用関係が存在することの確認を求めた事案である。

2 判旨 (請求棄却)

● 第一審

(1) 職種および業務内容の特定

 「Xは,小中学校の児童に対する歯科巡回指導を行う歯科衛生士として,あらかじめ職種及び業務内容を特定してYに雇用されたのであるから,特定されたこの職種及び業務内容との関係でその職務遂行に支障があり又はこれに堪えないかどうかが,専ら検討対象となるものである。」

(2) 本件における復職可否の判断基準

 「Xの身体,特に左上肢には麻痺(不完全麻痺)があり,左上肢の上下動等の動作自体は可能であったものの,左上肢,中でも左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難な状態にあり,左手で微細な動作を的確に行うことはできなかった」。

 「Yにおいて,歯科衛生士が行う歯科巡回指導の中心的かつ不可欠の要素となっているものは歯口清掃検査であり,業務量からいっても,歯口清掃検査が歯科巡回指導の業務の大部分を占めていること,昭和57年以降Yが行う歯科巡回指導の実績は小学校のみに限られていること」は前記認定の通りである。

 歯科衛生士が歯口清掃検査を実施するに当たっては「検査対象児童の歯,歯茎等,口腔内の状態を正確に把握することが必要であるところ,そのためには,〈1〉 歯科衛生士が,検査対象児童の口腔内をのぞき込むことができる適切な視線の位置(高さ)を確保する,〈2〉 歯を覆っている唇あるいは口付近の肉を検査の邪魔にならないよう押し広げるなどし,歯をむき出しにする,以上の2点が最低限必要である。」

(3) 判断基準〈1〉について

 「多くの児童を短時間に検査する必要性もあり,本件解雇当時から現在に至るまで,歯科衛生士及び検査対象児童が起立した状態で向かい合い,背の低い児童に合わせて歯科衛生士が中腰になるなどして,最も口腔内を見やすい位置を確保している」。前記認定のような身体状況にあったXにとって「この方法による検査を行うことができないことは明らかである」。

 しかし,「適切な視線の位置の確保のためには歯科衛生士及び検査対象児童が起立することが不可欠というわけではなく,歯科衛生士が着席した姿勢であっても,検査対象児童をいすに座らせ,場合によっては児童に指示して,児童自身に頭の位置を動かすようにさせるなどすることで適切な位置を確保することができ,児童が着席に要する時間を短縮する必要があれば,児童が座るいすを複数用意し,次の検査を受ける児童をあらかじめ座らせて待機させること等によって対応できるものと認められ,このような方法を採ることにより,検査対象児童に対し看過し難い悪影響を与える,あるいは歯口清掃検査が著しく停滞するなどの事情は認められないから,車いすを使用するXであってもこのような方法で検査を行うことができるのではないかと思われるところである。」

(4) 判断基準〈2〉について

 「児童の口唇部分は柔らかく傷つきやすいものと考えられるから,検査に当たる歯科衛生士は,児童の口唇に傷を付けたり,児童に不必要な痛みを与えたりしないことが強く求められるほか,唇という部位の性質上,これを触れられる当該児童ができる限り不快感を覚えないように配慮することも当然のこととして求められるところである。さらに,歯科衛生士が児童の唇等に直接触れる場合,歯科衛生士の指先に児童の唾液が付着することは避けられないところ,衛生上の観点から,指先を確実に消毒してから次の児童の検査に着手することが不可欠であるし,綿棒を使用する場合には,細く軽い綿棒を確実に持って動かし,必要な位置にこれを動かすことができなければならないことは当然である。」

 「以上のような要請を満たす検査を行うには,歯科衛生士は,自分の両上肢の動きを自己の意思で完全にコントロールし,手指を用いて細かな作業を行うことができなければならないというべきである」ところ,前記認定のようなXの左上肢の状況にかんがみると,「Xの左上肢は,このような作業を行うには堪えられなかったことは明らかであり,結局,Xは,本件解雇当時,歯口清掃検査を行うことができない状態にあったというべきである。」

(5) 結論

 Xは「Yの業務中最も重要な意味を有することが明らかな歯口清掃検査そのものを行うことができないのであるから,本件解雇当時,Xが勤務条件規程3条3項2号「心身の故障のため,職務の遂行に支障があり,又はこれに堪えない場合」に該当していたものといわざるを得ないところである。」

 「Xは,本件解雇は,単にXに身体障害が存在することを理由とするものであるから,介助者付きの原職復帰を認めずにした本件解雇は憲法14条1項,労働基準法3条違反である旨主張するが,上記左上肢の機能の制限は,歯科衛生士としての資格を持つX自身が行わなければならない事柄に関する問題であって,介助者の有無によって結論に差異をもたらすものではないから,Xの主張は前提を欠いている。」

 「以上によれば,本件解雇は適法と認められる。」

● 控訴審

 理由を一部変更しつつ,第一審と同様に請求を棄却。

(1) 判断基準〈1〉について

 児童をいすに座らせることの可否につき,次のように変更する。

 「この方法は,児童が着席するいすを複数用意するなど事前の相応の準備が必要である上,検査対象児童が歯科衛生士が意図した的確な位置に頭を動かすことに時間を要する場合が少なからず想定され,その場合には,歯科衛生士自身が自ら動いて口腔内を確認せざるを得ないし,その分余分な時間を費消することになる。そして,多人数の児童(中略)を与えられた時間内に的確に検査する必要にかんがみると,X主張の方法による検査可能性については相当の疑問があるというべきである。」

(2) 判断基準〈2〉について

 両上肢の完全なコントロールの可否につき,次の文章を付加する。

 「そして,多人数かつ多様な児童について与えられた時間内に検査を終えなければならないことから,迅速かつ的確に検査する必要があることも当然である。」

(3) 付加された主張について

 Xは,障害が発生したのは過重な業務に由来するものであるとの主張を控訴審段階において付加した。裁判所は,そのような事実はないとして業務起因性を否定。

 さらに,従来とは異なる検査方法により業務に従事できる可能性があることを主張したが,これも次のような理由で否定した。

 「児童を座らせたり,Xが高い位置に座るなどの方法は,児童やXの介護者に大きな負担を与え,かつ効率性を減殺させるものであって,限られた予算の中で多人数かつ多様な児童を短時間のうちに的確に検査しなければならない小学校の歯口清掃検査の遂行に支障があることは明らかである。次に,本件解雇当時,Xは左上肢を一時的に持ちあげることができるものの,左上肢を上げたままの姿勢を長く保持することが困難であり,左上肢を上げ下げする動作を繰り返すと左手に不随意運動が生じてしまうおそれがあることが認められるのであって,左のひじが長時間・連続的に随意的運動ないし保持ができたとは認められない」。「歯口清掃検査を的確に行うためには,右手だけではなく,左手をはじめ身体全体が的確な検査のために有機的に連動しなければならないのであって,現在の検査方法を採用したとしても,Xが,多様な児童の口腔内の状況を迅速かつ的確に検査できると評することはできない。」

3 評釈 (判旨賛成)

● 本判決の意義

 本件は,私傷病を理由として休職していた労働者が,長期療養を経たが完全に治癒していない状態で歯科衛生士(Dental Hygienist)としての復職を求めたものの認められず,解雇された事案である。

 疾病により労務の提供を行えなくなる事態は,誰に対しても生じうる危険である。業務上の負傷・疾病については解雇制限が課せられている(労基法19条)。私傷病であっても,公務員であれば休職規定がある(国公法79条,地公法28条2項)。しかしながら,民間の労働者の私傷病についての取扱いについて,労働関係の法規は明言していない(*2)

 一般に,休職期間満了時において休職原因が解消していない場合には,就業規則等に定める解雇事由に該当するか否かを判断したうえで,使用者が疾病労働者に対して解雇権を行使することになる。その判断についてはこれまで数多くの紛争が生じてきたところであり,本件はそこに一事例を加えるものである。私傷病休職制度は様々な問題を抱えるが,休職期間満了時ならびに復職に際しての取り扱いにつき考察を試みる。

● 判例動向

 この問題を考えるうえで踏まえておきたいのは,片山組事件最高裁判決(最一小判・平成10年4月9日・判時1639号130頁)である。この事件は,現場監督業務に従事していた労働者がバセドウ病に罹患したところ,現場監督業務に従事することは不可能であるけれども事務作業は行えるという場合に,自宅治療を命じて賃金を支払わなかった事案である。最高裁は,以下のように判示していた。

 「労働者が職種や業務内容を特定せずに労働契約を締結した場合においては,現に就業を命じられた特定の業務について労務の提供が十全にはできないとしても,その能力,経験,地位,当該企業の規模,業種,当該企業における労働者の配置・異動の実情及び難易等に照らして当該労働者が配置される現実的可能性があると認められる他の業務について労務の提供をすることができ,かつ,その提供を申し出ているならば,なお債務の本旨に従った履行の提供があると解するのが相当である。」

 すなわち,私傷病を理由として休職していた労働者が復職を申し出た場合において,従前の労務に従事することは困難であっても,使用者は単にそれを理由として復職を拒むことはできないというものである(*3)。もっとも本事件は,この片山組最判の射程外にある。まず,片山組事件は現場作業から事務作業への変更が労働者から申し入れられたという一種の配置転換についての事案であり,本件のように解雇にかかる事案ではない。さらに,本件原告労働者は「小中学校の児童に対する歯科巡回指導を行う歯科衛生士」として採用されており,職種の限定がある。

 職種限定がある場合における傷病休職からの復職につき,最高裁まで係属した事案としては,全日空(退職強要)事件が挙げられよう。これは,客室乗務員として稼働していた労働者が交通事故に遭遇し,頸椎不安定症・頸椎椎間板ヘルニアと診断されて4年余り休業・休職した後に復職したものの,復帰者訓練(エマージェンシー訓練)において不合格となったことが「労働能力の著しく低下したとき」に該当するものとして解雇された事案である。このような場合における「債務の本旨に従った履行の提供」につき,裁判所は次のように判示していた(*4)

 「労働者が休業又は休職の直後においては,従前の業務に復帰させることができないとしても,労働者に基本的な労働能力に低下がなく,復帰不能な事情が休職中の機械設備の変化等によって具体的な業務を担当する知識に欠けるというような,休業又は休職にともなう一時的なもので,短期間に従前の業務に復帰可能な状態になり得る場合には,労働者が債務の本旨に従った履行の提供ができないということはできず,右就業規則が規定する解雇事由もかかる趣旨のものと解すべきである。むろん,使用者は,復職後の労働者に賃金を支払う以上,これに対応する労働の提供を要求できるものであるが,直ちに従前業務に復帰ができない場合でも,比較的短期間で復帰することが可能である場合には,休業又は休職に至る事情,使用者の規模,業種,労働者の配置等の実情から見て,短期間の復帰準備時間を提供したり,教育的措置をとるなどが信義則上求められるというべきで,このような信義則上の手段をとらずに,解雇することはできないというべきである。」

 裁判所の判断によると,復職時における労働者の状況が休職に至る前と同等の労務を提供することができない状態であるとしても,それが一時的な能力低下に伴うものであるような場合には,復帰に際して便宜を図ることを信義則上求めている。これと同種の事案として,東海旅客鉄道(退職)事件(大阪地判・平成11年10月4日・労判771号25頁),北産機工事件(札幌地判・平成11年9月21日・労判769号20頁)がある。

 なお,復職時の労働能力につき,片山組事件最判が登場する以前の裁判例では判断が分かれていた。復職の判断をする時点で完全に回復していることを要求するものとして,昭和電工事件(千葉地判・昭和60年5月31日・労判461号65頁),アロマカラー事件(東京地決・昭和54年3月27日・労経速1010号25頁),ニュートランスポート事件(静岡地富士支決・昭和62年12月9日・労判511号65頁)がある。他方,エール・フランス事件(東京地判・昭和59年1月27日・労判423号23頁)は,治癒が近い場合には「徐々に通常勤務に服させていくことも充分に考慮すべき」としている。同旨を言うものに,宮崎鉄工事件(大阪地岸和田支決・昭和62年12月10日・労経速1333号3頁)がある(*5)

 また,うつ病や神経症疾患により休職していた者の復職について争われた近年の裁判例としては,独立行政法人N事件(東京地判・平成16年3月26日・労判876号56頁),B学園事件(大阪地決・平成17年4月8日・労判895号88頁)がある。

 では,本件のように職種の限定があるうえに,症状が固定して稼働能力が従前の状態にまで回復することが見込まれない場合についてはどうであろうか。本件事案と最も関連性を有する判例は,北海道龍谷学園事件(*6)であろう。この事件は,保健体育教諭として職種を限定して雇用されていた労働者が脳出血により右半身不随(右上肢は筋力の著しい減弱,右下肢についても筋力の減弱)となり,身体の障害により業務に堪えられないとして解雇された事案である。裁判所は,第一審では労働者からの請求を認容して解雇を無効としたが,控訴審では一転して解雇を有効とした。

 この事件で判断が分かれた理由は,障害の程度にかかる事実認定と,従事すべき業務の範囲についての判断によるものであった。第一審では,保健体育の授業では体育実技の模範を生徒にさせ,教諭自身は言葉による指示を出すことにより授業を展開することができ,さらに工夫をこらすことで保健の教科授業を展開することも可能であるとして,当該労働者の身体状況が就業規則に言う「精神又は身体の障害により業務に堪えられないと認めたとき」に該当するとまでは言えないと判断した。それに対し控訴審では,保健体育授業での各種運動競技の実技指導を行うことが体育教諭として要請される業務の中にあるとし,当該労働者の身体能力が保健体育の教員としての身体的資質・能力水準に達していなかったものであるから,業務に堪えられないと判断している。復職の可否を判断するに際し,職種限定がある場合だからといって直ちに「休職に至る前に従事していた業務」に復帰できるかを判断基準とするものではない,ということを示唆していたところに当該事件の着眼点がある(*7)

● 本判決の検討

 さて,本件の争点を改めて確認すると,勤務条件規程にいう「心身の故障のため,職務の遂行に支障があり,又はこれに堪えない場合」にXが該当するものとして使用者が為した解雇の適否である。

 本件では,職種が歯科衛生士として特定されており,X自身も歯科衛生士としての復職を求めている。そのため,片山組事件のように配置転換の可能性を含めて「債務の本旨に従った履行の提供」を判断する必要はない事案である。

 本件において裁判所は,第一審および控訴審のいずれも,【1】 歯科衛生士が,検査対象児童の口腔内をのぞき込むことができる適切な視線の位置(高さ)を確保する,【2】 歯を覆っている唇あるいは口付近の肉を検査の邪魔にならないよう押し広げるなどし,歯をむき出しにする――の2点を労働者が最低限提供すべき履行の内容である,としている。こうした基準の策定はもっぱら裁判所の事実認定に負うところであるが,本件では従事すべき業務の中心的かつ不可欠な内容を取りだして評価要素としており,妥当な判断手法と言えよう。

 本件事案では復職の判断時においてXの左上肢は不完全麻痺の症状が固定しており,これが近いうちに回復することも見込まれない。全日空事件の表現に沿って言えば「基本的な労働能力」そのものが低下している事案である。Xにおいて前記【2】を十分に達成できるだけの身体的運動能力が備わっていることを示せなかった本件にあっては,職務の遂行に堪えられないとして解雇有効との判断になることは致し方ないものと考えられる。

 ただし,前記【1】に関して,車いすに着席した状態での就労の可否についての当てはめ判断を狭く変更した控訴審の判断には疑問が残る。確かに,障害を有した状態で就労することにより効率性が落ちるであろうことは否めない。しかし,「債務の本旨に従った労務の提供」とは何かを考察するにあたり,健常労働者とまったく同等の労務(完全就労)を提供できなければならないと限ることは相当ではないと評釈者は考える。本件に関して言えば,口腔内を把握するための視線を確保できるかどうかが問題とされるべきところである。何らかの代替手段を講じることによりこの要請が満たされるのであれば,歯科衛生士としての職務は遂行可能であると判断される余地は多分にあると考えられる。そのための方策として従前とは異なる検査方法の導入が提案されたのであれば,使用者はこの提案を実行した場合に著しい業務の遅滞が起こるかどうかを検討し,その上で復職の可否を判断すべきところであろう。この点,控訴審では「多人数の児童(その中には容易に指示に従わない児童も存在する。)を与えられた時間内に的確に検査する必要にかんがみ」てXが提案する代替案には「相当の疑問がある」としているが,この説示は効率性の低下を抽象的に論ずるものであって,適切とは思われない。

 また,業務を配分するにあたって児童数の少ない学校を割り当てるなど負担の軽い作業を担当させるなどの配慮をすることによって,効率の低下を補いつつ就労を継続できる余地が無かったのかも疑問に感じられるところである。関連判例に挙げた北海道龍谷学園事件において使用者は,障害を有する状態で実技も行う保健体育の教員としての復帰は無理であるとしながら,時間講師として保健の授業を担当することでの復職提案を行っていた(当該事案の場合には労働者の側でこの提案を拒絶している)。基本的な労働能力そのものが失われたわけではないが完全な労務の提供は困難だという場合,限定された職種の範囲内で配置を変更したり,業務内容を見直すことによって復職を認める余地が無いのかを検討することが使用者には求められているものと思われる。このような配慮をすることなく解雇に踏み切った場合には,信義則に反し無効との判断が為されるものと考えられよう。

 ともあれ,前述のように,本件ではXが従事すべき業務の中核的な部分を遂行するに足りるだけの身体的運動能力が欠けていると認められるので,解雇を有効とした判旨に賛成する(*8)(*9)

脚注

(*1)  頸椎症は,椎間板の退行性変性が原因。脊髄圧迫による脊髄症と,脊髄から枝分かれした神経の圧迫による神経根症(しんけいこんしょう)に分類される。両手の巧緻運動障害が特徴。

(*2) 私傷病休職制度の全般については,水島郁子「疾病労働者の処遇」『講座21世紀の労働法』第7巻127頁,吉田美喜夫「疾病労働者の処遇」ジュリスト『労働法の争点』〔第7版〕242頁,松田保彦「休職制度の法律問題をめぐる新たな展開」労働判例775号7頁(2000年)を参照のこと。また,制度の運用実態を調査したものとして,日本労働研究機構『病気休暇制度に関する調査研究』(1998年)がある。

(*3) 片山組事件に関連し,傷病を理由とする休職にあたっての使用者の決定に労働医の関与を求め,復職時の再配置義務を労働法典で規定しているフランスの制度を紹介するものとして勝亦啓文「労働医による就労不能認定と使用者の再配置義務」労働法律旬報1599号21頁(2005年)がある。

(*4)  第一審(大阪地判・平成11年10月18日・労判772号9頁)は請求を認容し,慰謝料50万円の支払いを命じた。控訴審(大阪高判・平成13年3月14日・労判809号61頁)は,慰謝料の額を80万円に変更したが,その他は一審の判断を支持。上告審(最三小決・平成13年9月25日・労働法令通信54巻30号22頁)は不受理。ここでは第一審での判断を引用している。なお,この事件については,徳井義幸弁護士による解説がある(労働法律旬報1530号38頁)。

(*5) これらの判例については,古川陽二「私傷病休職における『休職事由消滅の有無』の判断基準」労働判例449号12頁(1985年),前掲・吉田論文,拙稿「傷病休職をめぐる最近の裁判例」労働法律旬報 1488号56頁(2000年)を参照のこと。

(*6) 旧事件名:学校法人小樽双葉女子学園事件。第一審:札幌地小樽支判・平成10年3月24日・労判738号26頁,控訴審:札幌高判・平成11年7月9日・労判764号17頁。この事件では,地理歴史・公民の教諭資格を取得したことが復職可能性の判断に影響を与えるのかも論点となっていた。この事件の評釈としては,鶴崎新一郎「社会法判例研究」『法政研究』(九州大学)66巻4号85頁がある。

(*7) 北海道龍谷学園事件の控訴審では,原告労働者が体育実技指導を行うことが困難な身体状況にあることに加え,教室内における教科指導についても「右手による書字は困難である。左手による場合,健常人と比較すると,紙面筆記,板書共に,半分位の能力であり,実用的なところまでに達していない」こと,また構音障害(どもり)があって「大勢の人の前で話す場合や緊張しているとき相手にとって聞き取りが難しく,高校における授業時を想定すると,授業を受ける側に立つ生徒の理解と協力が必要となる」等を認定して,「業務に堪えられない」場合に該当するとの判断に至っている。

(*8) 日本における障害者の雇用状況について触れておくと,2004年時点において,民間企業で雇用されている障害者は前年比で4.4%増加し25万7939人となったものの,法定雇用率を達成していない企業の割合は58.3%である。詳しくは労政時報3658号(2005年7月22日号)124頁を参照。

(*9) JILPT『海外労働情報』2005年4月号が伝えるところでは(→URL),オランダでは障害保険法が改正され2006年1月に「『就労能力に応じた仕事と所得』法」が導入される予定であるという。この法律には,仕事への適応率65%以下と判定された「部分的な障害者」の再雇用を促進するための財政的優遇措置が盛り込まれている。


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